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2019年8月15日木曜日

宮田修二君逝く(106‐204‐308.令和元年7月24日)

宮田修二君を8月10日蛍雪会総会(今治国際ホテル)と11日潮流体験(大浜漁港)に誘っていました。メールしても、携帯に電話しても、中々返事が無いので、6月以降、何度か、しんどいと本人から聞いていたこともあり、そうなのかなと思っていると、10日の11:32に携帯が鳴り、画面には"宮田修二"。やっと、当日になって出欠の返事かと思って電話を取ると、「宮田修二の従兄弟です。」
 
声は聴き馴れた本人の声です。西高時代は寡黙な秀才と言うイメージでしたが、最近は結構にやけたおっさんになり、良く喋っていました。「こいつもこんな冗談言う様になったか。」と一瞬、虚を衝かれましたが、更に「宮田修二は7月24日に亡くなりました。」
 
余りに声がそっくりなので、俄かには信じられませんでしたが、「急に気分が悪くなり、救急車で病院に着く前に亡くなりました…。」 

愛媛県在住で、愛媛新聞を読んでいる同級生は、結構、宮田修二君の読者投稿を目にしたはずです。それもそのはず、投稿掲載156回を誇ります。実は宮田修二君は、信じられないほど歳は離れていますが、放浪記の作者、林芙美子の従兄弟に当ります。文才があったはずです。6月11日の投稿掲載が最後となりました。

写真左上は壬生川駅前の林芙美子の碑(2年程前に本人撮影)。右は、林芙美子が父の宮田麻太郎(宮田修二君のおじ)に宛てた手紙全文。冒頭の説明文に、林芙美子の父が旧東予市出身の宮田麻太郎であると書かれています(8月13日筆者撮影,click拡大)。この宮田麻太郎の相当年の離れた弟の、更に晩年の子が宮田修二君。正真正銘、林芙美子の従兄弟です 

最近、本人は「西条市の健康診断でも異常なし。癌じゃない。ただ、最近、しんどいんよ。」と言ってはいましたが、既に、この頃から、命のゼンマイは尽きかけていたのかも知れません。ただ、本人はしんどいだけで、まさか、もうじき人生が終わるとは思っていなかったはずです。

写真下は、この春、宮田修二君が送ってくれた壬生川の桜。そして、石鎚山は昨年だったでしょうか。花や景色が好きで、たまに写真を送ってくれました。この2枚しか手元に残していないのが、今となっては悔やまれます。文才も絵心も豊かで、世渡りは下手な奴でした。晩年は、結構、付き合いがあっただけに、残念です。

4月21日(日)、一緒に今治球場で、今治市越智郡親善交流試合(昔の四校親善試合)の西高の試合を見て、我が家に寄ってもらったのが最後になりました。電話で最後に話したのは7月初旬ではなかったかと思います。宮田、早過ぎるぞ!!


連絡ありがとうございます。 突然のことで、驚きました。 本当に残念です。 35年くらい前、(司法試験の)受験新報だったかな? 受験生向けの雑誌で宮田修二君の名前を見つけたことがありました。何の投稿だったか忘れましたが、頑張ってるんだなぁと思った記憶があります。 優秀な人材を喪失しましたね。 合掌(元クラスメート女子)。卒業の二度と揃わぬ写真かな_そして、宮田修二は伝説となった(追悼記事)

  
 

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