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2020年1月11日土曜日

卒業の二度と揃わぬ写真かな_そして、宮田修二は伝説となった

晩年一人暮らしで、生涯独身だった宮田修二君(106.204.308)。令和元年7月24日、準孤独死を迎えました。葬儀も宮田家からの出席者は無く、母方の年老いた親戚が僅か5名。宮田本家の墓に埋葬されても、墓石にその名が刻まれることもなく、終の棲家となった古い家も遅かれ早かれ消える運命ならば、やがて、宮田君の地上での存在自体が忘れ去られてしまうと危惧した私は、せめて西高のかつてのクラスメートには憶えていて欲しいと願い、1月2日同級生との墓参り前後の12月24日から1月11日まで、毎日少しづつ、以下の想い出を書き留めました。長くなりましたが(スマホよりパソコン視聴推奨)、共に回想して、偲んで頂ければ、突如、命の灯の消えた故人も慰められると確信します。

宮田修二君とは204で一緒になりましたが、初めて聞く名前ではありませんでした。当時、年2度(?)行われていた関西模試が終わると、全国の成績上位優秀者の名前が載ったパンフレットが配布されていましたが、そこには1年の時から彼の名があり、見覚えがありましたので、本人を見た時には、これがあの秀才宮田修二かと一歩引きました。

事実、当時、宮田君をそう感じていたのは私だけではなかったはずです。ある意味、畏れ多く、宮田君!とさえ、そう簡単に話しかけられず、ましてや、宮田!と呼び捨てにするなどとんでもない、そんな空気が彼の周囲にはありました。今回、これを裏付けるかの様な証言を頂いています。

宮田さんは同じクラスでもあったことから、端正な顔立ちとともに、高校生らしからぬ品ある雰囲気を感じたことを今も思い出します。人の運命の「切なさ」、そして「儚さ」を改めて感じております。ただ、本人にとっては「良き人生であった」と感じながら亡くなられたことを願うばかりです。合掌(元204男子.1/2墓参不参加)。

と、少なくとも、私を初め、成績非優秀者のクラスメートは宮田君との間にこの距離感を感じていたはずです。また、本人が極めて内向的性格でもあり、204の時分、私は宮田君が自ら誰かに話しかけたと言う記憶がありません。

この様に、誰もが"如何にもいい奴そうだから、話してみたいけど、崇高過ぎて、話しかけ難い"と感じていた宮田君に、もう誰だったか覚えていませんが、ある男子生徒が、余程どうやって呼ぼうかと考えた挙句のことだったのでしょう。何と「宮田氏!」。未だに忘れられません。

この寡黙な秀才孤高の秀才こそ、本人の意に反して、本人の醸し出していたイメージでした。それは、彼が頭がキレ、積極的に話すタイプではなく、周囲もまた、それ故に、容易に話しかけなかったのであれば、事実、そうであり、言い当て妙であり、幸か不幸か、当っていたと思います。

そんな中、私はたまに、下校時に宮田君と遭遇して、一緒に今治駅まで歩くことがありました。話してみれば、寡黙どころか、結構言葉数も多く、表情も言葉遣いも良寛さんの様に柔らかく、極めて人懐っこく、極めて柔和な人柄で、「あ、この男は嘘を吐けんこう言う人間は信用出来る。」と、私も高校生なりに肌で感じました。因みに、当時、クラス別名簿を見れば、保護者はお母さん。「こいつ、母子家庭で苦労しとるな。」と共感を覚えました。

さて、西高卒業と同時に、同級生の殆どは宮田君の音信が途切れたはずですが、宮田君は予定通り、順当に、然るべく、大阪大学法学部に進学。実は、1年の秋、私は今治駅前でバッタリ遭いました。その時は弁護士を目指していると聞きましたが、この時以来、私も今治を長期に渡って離れたこともあり、約38年の空白が生まれることになります。

私自身、長い放浪人生の後、今治に戻って来たのが2013年。再び、連絡を取り合うようになりましたが、まさか、エリートの宮田君も長い放浪人生を送っていようとは夢にも思いませんでした。実は、私は再会して初めて、宮田君が放浪記の林扶美子の実の従兄弟であることを本人の口から聞くことになりますが、今想えば、従兄弟の宮田修二の人生もまた、林扶美子に負けず劣らず、芯のブレない、しかし、苦労の絶えない放浪記でした。最後は心臓が急に止まったことまで同じでした。

宮田君の家系図を少しだけ紹介します。祖父の宮田惣助(安政1年生.写真4中央左墓石に名前)は、松山藩の飛び地で、一大商業地だった壬生川の新町(現西条市新町.写真5.6)で扇屋なる商店を興し、7男4女を儲けます。長男麻太郎(明治15年生)は行商中に知り合った林キクと芙美子を儲けますが(写真8)、惣助は認知せず、本来宮田家を継ぐべき麻太郎は壬生川を離れ、下関に移住して大成功。芙美子は宮田芙美子ではなく、林芙美子となります。

大正10年、芙美子は祖父惣助の葬儀に初めて壬生川を訪れ、この時、惣助の六男で、僅か5才違いの叔父の親盛(明治33年生)、後の修二君のお父さんにも会っています。

この頃、今治の銀座通りが今は無残なシャッター街に零落れた様に、新町もすっかり寂れ、惣助の息子達も皆、成功した兄の麻太郎を頼って、下関と福岡に移住し、その子孫は今でもあちらに住んでいます。今は既に従兄弟の孫に孫がいる世代となり、もはや修二君は他人同然。付き合いは一切なかったどころか、11月下旬、下関の麻太郎の孫(推定70才程)に修二君の死を知らせたところ、修二君を知りもしませんでした。唯、その文面で、今回の1月2日に同級生を伴っての墓参の旨を伝えると、丁重に感謝の意を伝えられました。この返事の封筒が届いたのが、何と前日の元旦でした(写真15)。

一方、新町に唯一残った六男親盛氏は昭和10年に先妻と結婚。18年離婚。この前後に満州に渡り、終戦後引き揚げ。おそらく、戦後の大変な時代を生き抜いた末に、昭和31年再婚。32年に修二君が生まれます。父が58才の時の年寄子ですので、世代は親子以上に離れていても、修二君と林芙美子は正真正銘従兄弟同士になります。そして、昭和40年に親盛氏死去。宮田君とお母さん(大正10年生)の母子家庭が始まります。お母さんも大変なご苦労をされたことでしょう。

さて、知能指数はともかく、後述する様に、同類項の放浪野郎だと察した私は、西高時代にもまして、宮田君に人間として魅力を感じ、一人暮らしで、他人との付き合いもなかった彼もまた、38年の時空を超えて、再会した私との会話を楽しんでいる様でした。同類相憐れむ、だったのかも知れませんが、彼も私に同じ臭いを嗅ぎ取ってくれていたのでしょう。波長は合いました。

宮田君は大阪大学卒業後、NHK大阪に就職。人も羨む超エリートコースです。程なく、釣り合いの取れた女性と結婚して、出世街道を進み、今頃は重役としてNHKを支え、子や孫にも恵まれていたなら、放浪記ではありません。

僅か1年か2年でNHKを退職。宮田君の放浪記の始まりでした。後ろ髪どころか、「宮仕えは性に合わん。これからはやりたい事をやる!」と本人はさばさばしていたはずです。そのやりたい事とは、結局、亡くなるまで変わることはありませんでした。

たまに、プロ野球選手を称して、幾つになっても野球が好きで好きで堪らない"野球小僧"と言う表現が使われます。ならば、宮田君の正体は、何才になっても、ただ勉強がしたいだけの勉強小僧だったと言って宜しいと思います。

宮田君は昭和32年1月8日生まれ。実は健康上の理由で、西高を1年留年しています。今回、同じ東予西中に通った西高同級生に話を聞いたところ、「勉強し過ぎて身体を壊してしまった(元302男子.1/2墓参不参加)!」そうです。こうなると、もう笑い話ですが、文字通り、勉強小僧丸出しで、宮田君らしい逸話です。しかし、まだ、逸話は始まったばかりでした。

NHKを辞めた後は大阪で塾の講師となりました。理想的とも思われましたが、宮田君は人に使われることが性に合わなかった様です。これも長続きしませんでした。勉強だけしていれば良かった大学卒業までが、勉強小僧宮田修二の人生の一番いい時期ではなかったかと想像します。

しかし、歪な金銭社会の実社会に出れば、何らかの収入を得なければ生きて行けません。この後、大阪で、そして、お母さんの面倒を見るため、いつしか、故郷壬生川に戻っても、相当数の職場を短期間で辞め、転々として行きます(宮田君の履歴書に目を通した、今も遺品整理をしている母方の従兄弟談)。場所は大阪と壬生川でしたが、正に、放浪記です。

私は就職したことがなく、文字通り、路上で乞食とテキ屋までやりましたが、宮田君も中々の放浪記です。その原因は、やはり、内向的で、初心(ウブ)過ぎたことでしょうか。今回、元106男子のクラスメートから、次の様なエピソードを頂いています。

新年会、墓参には残念ながら参加できませんが、宮田君との思い出を僭越ながら、送らせて頂きます。墓参後の懇親時にでも、皆さんで偲んで頂ければと存じます。秀才肌で、話し方も穏やかだった宮田君とは出席番号が近かったせいか、何故か私の傍らに居たりして、私が彼に気付くと話し掛けてくる様な男子でした。自分とは真逆の人間だと感じたのでしょうか、ある時、下校時の自転車置き場で偶然を装って、宮田君が声を掛けて来ました。「~君、一緒に帰ろうよ。」と。「え! 何て言った?」 意外な展開に、もう一度聞き返しました。「~君の家に行きたい。部屋に行ってみたい。」とはにかむ表情で。全く突然のお誘いに、まぁ断る理由もないので私の部屋に。小、中学生からのプラモデルやモデルガン、フィギュアで満杯の、男子が狂喜乱舞の室内ですが、宮田君が興味を示したのは、親が買い揃えた、戸棚に並ぶ文学全集や百科事典でした。「~君、凄いよ、凄い。」と何度も呟き、全集を手に取る宮田君の横顔を眺めつつ、「こりゃ、二度目はないな。」と感じた私でした。宮田君を偲び、彼の一面が伺えるエピソードでした。

私はこれを聞いて、誰かを訪問した際、玄関脇で辛抱強く待って、本人が出て来たら、偶然を装って、「あのう、もし。」と声を掛けたと言う、西郷隆盛を思い出しました。そっくりじゃないですか? 大物ほど繊細で、謙遜、柔和、他人思いで、控え目なのでしょうが、唯、さすがの秀才宮田君も、西郷隆盛ほどの豪胆さは持ち合わせていませんでした。

そんな世間知らずの呉服屋の若旦那みたいな宮田君(他の元204男子.1/2墓参不参加)も、勉強だけしていればいい学生時代は大した問題もなく、平穏な日々だったのでしょうが、卒業後に投げ出された実社会では、突如、丁稚奉公に出されて、心休まる時のない若旦那の心境だったのかも知れません。もはや、柔和で人懐っこいだけでは渡って行けなかったどころか、残した日記によれば、周囲と激しくぶつかることも結構ありました。

事実、温厚な宮田君には、信念は曲げない、正義感の強い、芯の強い一面がありました。「物静かな中にも闘志ある姿を思い出します(元308男子.1/2墓参不参加)」生涯156回を誇った愛媛新聞への投稿記事にもそれは表れていたと思います。また、それが実際に爆発してしまう、時には喧嘩腰にもなる、我々からすれば、「あの大人しい宮田君が」と言う一面もあり、それは、実は、本人の告白するところでもありました。これもまた、人間宮田修二の素顔です。同時に、投稿には政治的には左寄りかなとも思わせる文章もありました。それも、昭和40年以降母子家庭で、母子共々苦労した人生だったことを想えば、自然の流れだったのかも知れません。

かくして、転職を繰り返しながらも、否が応でも金銭社会で生きて行くことを強いられた勉強小僧宮田修二。最後の仕事は自宅から車で5分の愛媛県東予地方局(西条市)の夜勤警備員。何と10年4ヶ月続きました。「あいつにしちゃ長いな(母方の従兄弟談)。」人間関係に悩むことなく、勉強小僧の本業の寺子屋に勤しむため、孤高の秀才宮田修二君が敢えて選んだ生活の手段でした。

宮田君は町の寺子屋の先生として余生を送るつもりでした。それだけが勉強小僧の夢でした。現に、最後に会った2019年4月21日、2人で今治球場で今治市越智郡親善野球大会(昔の四校親善野球)で西高の試合を見た後、うちに寄って、お茶を飲んで行ってもらった時も、ホームページの作り方を教えてくれと言われました。勿論、私塾用です。私は目の前のパソコンで幾つかの無料ホームページ作成ページを見せて、手に負えそうになければ、業者に任せたらどうだと助言しました。

なお、再会した晩年の宮田君は、寡黙どころか、良く喋っていました。私の勝手な想像ですが、実は、気を許せる相手には、むしろ、どんどん話して止まらなくなるのは、子供の頃からじゃなかったのかなと思います。スイッチが入らない時は"寡黙な秀才"だったと言う方がより正確でしょう。

宮田君と私は、知能指数を除けば、似た者同士でした。宮田君はあれだけ頭が良い反面、パソコンもスマホも苦手でしたが、私もかつて、パソコンを買って、メールが打てるまで2年半かかりました。その他、自分の道を貫くためには経済的安定は度外視する、経済観念が余りない、よって、結婚出来なくても仕方がない(私も結婚は遅かった)、人に使われたくない、好きなことは徹底的に追及する、それが金になるまいとお構いなし。そして、いつしか放浪者となる…。

お互い、月謝7000円で、生徒が10人来ても、月収7万円の世界に生きていたこともあり、私も体験として、気持ちは痛いほど良く分かりました。良く言えば、我が道を行く、悪く言えば、資本主義社会への順応性のなかった変わり者…となるのでしょう。

そして、事実、宮田君も私も、金も安定性もありませんでした。「勉強小僧はそれでいいじゃないか。」とは言わなかった宮田君でしたが、既に、自宅の一室を改造して、宮田進学塾を開いていました(写真1)。「まさか、まだ、微分積分出来るんか?」「当然じゃろが。」「それで、お前がそこまで情熱を傾ける塾の生徒は、今、何人おるん?」と聞けば、「まだ、1人なんよ。」と無邪気な表情で笑いながら答える宮田君。絵に描いた様な採算度外視。少子化で、ましてや、田舎で、上手く行く訳のないことさえ見通せない先見の明の無さ。それでも、やらなければ気が済まない拘りのビジネス感覚の無さ。増々同類項でした。

ついでに、「嫁はんもらえ、嫁はんを!」と言うと、「いや、結婚相談所に登録はしとるんじゃけどね。」「それで、何かええ話なかったんか?」「いや、まだないんよ。」「大体、60超えてから婚活するか、アホ!」

その時、「お前、わしと一緒やないか! ええ具合に全部ズレとるやないか! その調子で行け!」とは言いませんでしたが、その後、宮田君がその調子で行くこともなく、塾のサイトが立ち上がることもありませんでした。私は覚えていませんでしたが、この時、お茶を出したうちの嫁はんが、宮田君が「最近、ちょっとしんどいんよ。」と言っていたのを聞いたそうです(後日談)。

その後、5月6月と、メールと電話で何度かやり取りしましたが、確かに、しんどいと言い始めました。「癌じゃなかろな。病院行って来いや。」「いや、今年も西条市の検診受けたけど、癌はなかった。唯、どこが悪い言う訳じゃないけど、何となくしんどいんよ。」

それでも、私が11月19日に直接話を聞いた職場の上司の方によれば、宮田君は仕事は一切休まなかったそうです。唯、1日を除いて。宮田君が自ら休みを申し出て来た日が1日だけあリ、その日の同窓会を非常に楽しみにしていたそうです。つまり、今治国際ホテルでの27期還暦同窓会のことでした。この日が宮田君を見た最後の日になった同級生も多いはずです。

その上司の元に、7月24日14時頃、夜勤明けで、起きたばかりの宮田君から、調子が悪いので休みますとの電話がありました。驚いた上司が宮田君の自宅に車で駆けつけると、宮田君は汗びっしょりだったそうです。唯ならぬ気配を察した上司は、直ぐに地元の三芳の行本病院へ連れて行きました。

最初から大きな病院に行っていれば、助かっていたかも知れませんが、実は、上司が着く前に、宮田君本人が知り合いの西条市議会の何とか議員に、どこの病院がいいかと電話しており、まさか、そこまで重篤とは思わなかった議員さんも、一番近いこの町医者を紹介したそうです。また、おそらく、宮田君も「いや、大したことないですから。」と社交辞令の様に言ったことでしょうから、これは仕方がありません。

行本病院では「これはうちでは手に負えん。今すぐ大きな病院へ。」との判断が下され、救急車が呼ばれ、西条市の村上記念病院に向かいました。その際、宮田君は上司に「大丈夫ですから、仕事に戻って下さい。」と言ったそうです。この後、搬送中に心臓が止まり、到着後も蘇生が試みられましたが、その甲斐はありませんでした(病名:急性心臓死)。おそらく、4月21日にしんどいと言っていた時には、既に、心臓が弱り始めていたのでしょう。

几帳面な宮田君は、自らの放浪記の終焉となったこの日も、自ら薬手帳を持って病院に行ったそうです。ところが、そこには心臓の薬履歴は一切なく、精神病のそれがありました。結局、大学卒業以来の長年の気苦労と長年の夜勤で、遂に、心身共に限界に達したのではないかと想像します。

もし、西高で受験勉強だけしていれば良かったあの日々が永久に続いていたなら、宮田君は生き生きと輝いて、長生きしたのではないでしょうか。

あれだけの頭脳の持ち主が、もっと巧く立ち回っていれば…と思うところですが、それが出来なかったのが、寡黙な秀才、孤高の秀才、勉強小僧、宮田修二君の一生だったと、私は勝手に思っています。勝手にですが、最後まで結構付き合いのあった友人として、当たらずとも遠からずだと実感しています。

さて、そうとは知らない私の方では、宮田君を8月10日の今治国際ホテルでの蛍雪総会、及び、11日の朝夕仰ぎて27の大浜海岸の遊覧船ツアーに誘っていました。大体、仕事の都合で来れないことが多く、それでも、いつも行けない旨は数日前には知らせてくれていましたので、最後の電話が7月初旬だったと思いますが、それ以来、音沙汰なしでも、「おかしいなあ。まだ、しんどいんかなあ…」としか思わず、期日が迫って来たので「生きとるか?」とショートメールを送りましたが、返信なし。ここで、私も少し、胸騒ぎを覚え始めました。

そんな中、8月10日11:32に携帯が鳴りました。画面には"宮田修二"。私は条件反射で「お前なあ、直前になって返事か? 蛍雪会総会は17時からじゃけん、まだ、間に合うけどな。」と思いました。再会後は、西高時代とは違い、互いに呼び捨てで、"お前"した。

次いで、聞き慣れた宮田君の声が聞こえて来ました。「私、宮田修二の従兄弟ですが、修二は7月24日に亡くなりました。」 第一声で私が200%本人の声だと確信して、一瞬ホッとしたほど、本人の声でした。二瞬目には「こいつ、何の冗談言うとるんじゃ!?」と思い、三瞬目に事態が飲み込めました。

今、書いている事は、上司の方もですが、この伊予三島の母方の従兄弟による証言も多いです。今も、何の遺言も残さなかった宮田君の相続などの後始末をしています。話を聞いていると大変です。私達も後々の事は生前にしっかりしておく必要がありますが、一つだけ、そうしなかった宮田君の言い訳をするなら、この宮田君の従兄弟も私も、最後の会話や残した日記などから察すれば、本人はまさかここで人生が終わるとは夢にも思っていなかったと言うことです。

せめて墓参りをと思い、9月になって、教えられていたこの従兄弟の自宅の備え付け電話に電話しました。そして、意外や、ここから、宮田修二君の最大の想い出が始まります。いや、実は既に、8月10日に始まっていました。

この2度目の電話での従兄弟の声が違ったのです。この時は墓参りの意志だけを伝えましたが、後日、今度は従兄弟の携帯から私の携帯に電話があり、具体的な墓参りの日取りを申し合わせました。この3度目の電話でも、やはり、声は違いました。私は是非とも、この宮田君の母方の従兄弟と直接会って、確かめたくなりました。

そして、10月28日、壬生川の新福寺で待ち合わせ、宮田家代々の大きな墓所に案内してもらいました(写真4)。この従兄弟は宮田君のお母さんの妹の息子に当たりますが、既に70過ぎ。8、9年ほど前の宮田君が喪主だったお母さんの葬儀にも、今回の宮田君の時も、宮田家から参列者は皆無だったこと。今回も、むしろ、誰にどこに知らせていいかさえ分からなかったこと。出席者が母方の年老いた親戚僅か5名だったことなど伺いました。

そして、直接会って、いや、聞いて確かめたかったその声は…明らかに別人のそれでした。最初に宮田君の死を伝えた記事は、8月10日に初めて宮田君の声を従兄弟の口から聞いた後、8月15日に書いた記事であり、2度目の9月初旬の電話の前の記事です。私が従兄弟の声は宮田君の声とそっくりなんだと思い込んでいた時に書いた記事です。きっと、血縁だからそうなんだと確信していた時に書いた記事です。不思議ですが、本当です。

私は、8月10日、宮田君が自らの携帯で、私に別れの挨拶をしてくれたと思っています。

以上、かつてのクラスメートの想い出の中の宮田修二君に風化して欲しくないとの願いから、ほんの少しだけ美化してしまったかも知れません。私も、今まで、小中高と結構な数の同級生が亡くなっていますが、正直、今回の宮田修二君の死が一番応えましたので、長い文章になってしまいました。

なお、墓石には修二君の名前が刻まれていないこともあり(宮田家が地元に残っていないので、そうする人がいない)、また、墓地自体も意外と広く、他の宮田姓の家の墓も結構あり、いきなり行って、捜せるものでもありません。今後、万が一、墓参りに行こうかと言う同級生がいれば、今回墓参した7名の何れかにお問い合わせ下さい。大体の位置や目印は説明出来ます。

最後に、タイトルの【卒業の二度と揃わぬ写真かな】は、墓参後の懇親会で、或る27期女子が即興で詠んでくれたものです。いいですね。秀作です。文才溢れる宮田修二君も、必ずや気に入ってくれていることでしょう。それでも、宮田。やっぱり、ちょっと早過ぎたぞ。

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1.宮田修二君の終の棲家_宮田進学塾の看板が見える
2.最後の主の表札
3.直ぐ近くに在った宮田家本家_"宮田修二氏所蔵"とある 
4.宮田家本家の墓所_宮田修二ここに眠る(祖父惣助.父親盛.母マツヱetc)
5.故郷新町の町内図(昭和33年) 
6.これを更に詳しくしたもの_"宮田修二(宮田親盛)"とある_ど真ん中下の消えかかった"宮田"が惣助の葬式に大正10年林芙美子が訪れた宮田家本家跡_その左横には惣助の四女で宮田君の叔母トキの嫁いだ毛利家の毛利自転車店(今も在る!)_宮田君逝去により、地元に唯一残った宮田家本家の親戚
7.宮田修二君記事
8.林芙美子と父宮田麻太郎_林芙美子関連書籍で必ず見る写真_"東予市宮田修二氏所蔵"と見える_今も母方の従兄弟の整理する遺品の中から3と共に出て来るはず_なお、惣助の長男麻太郎は六男で宮田修二君の父親盛とは良く似ていたと言う_そう言えば、目元や顔立ちは修二君を思わせる_このオリジナル写真は今、修二君の遺品を整理中の母方の従兄弟の元にある 
9.10.11.12.13.宮田修二君が西高時代に日本史の竹本千万吉先生に依頼されて書いた林芙美子関連の文章
14.宮田家家系図_修二君の名前も見える
15.父親盛には先妻との間に2人の娘がいたが、宮田君は生涯これらの異母姉妹のことを口にすることなく、遺品整理をしている母方の従兄弟も、死後初めて戸籍によりこれを知るも、2人共、半世紀以上前にアメリカ人と結婚して渡米しており、生きていても90才以上_何か手掛かりはないかと下関の麻太郎の孫に手紙で11月末に問い合わせたところ、墓参り前日の令和2年元旦に封書で届いた回答
16.林芙美子実父への手紙(佐藤公平著_5.8~13引用)
17.麻はん(吉本栄作著_林芙美子の父、修二君の叔父麻太郎が主人公の歴史小説)
18.人間林芙美子(竹本千万吉著_7.14引用)
19.壬生川駅前の林芙美子記念碑(修二君撮影)_平成何年度かの除幕式には修二君も参列
20.修二君が撮影して送ってくれた石鎚山の写真(平成30年暮れ)
21.修二君が撮影して送ってくれた壬生川の桜(平成31年春)
22.修二君が撮影して送ってくれた、朝倉のタオル美術館のイルミネーションかな?
23.老人介護施設まほろば(壬生川駅前)_2階に林芙美子常設展示場_3.6.の写真のコピーもここに"宮田修二氏所蔵"として展示されている

7 件のコメント:

  1. 今西29期の者です。宮田修二さんは部活の先輩でした。亡くなられていたことを存じませんでしたので、大変ショックを受けました。宮田さんに関する詳細な情報をご提供いただき、ありがとうございます。遠くない時期に墓参に伺いたいと存じます。

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    1. 投稿感謝します。私は常磐町4-7-35の店に居ます(土曜定休以外 https://www.spainguitar-sefardi.com/)。2/21までは渡航していますが、2/22以降はいつでも墓参りにはお付き合い出来ます。一度ご連絡下さい。

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    2. コメントありがとうございます。とりあえず、投稿いただいた写真を頼りにひとりでお墓を探してみます(旧東予市新町の小生の親戚に用があるときに合せて行ってみようと思います)。わからなかったらご教示をお願いいたします。

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    3. 「朝夕仰ぎて27」のなかで、旧姓二谷さんの投稿のなかの写真に宮田修二さんが写っていますね。前列真ん中に竹本千万吉先生、その左に玉田修一先生、その左隣が宮田さんです。アイドルのようなお顔立ちでした❣

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    4. 私は二谷さんとは1年生の時同じクラスで、二度ほど、同級生共々、宮田君の墓参りに行きました。また、皆で行ける日があるといいですね。

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    5. いろいろと詳細に調べ上げられて、情報を共有され、宮田さんもさぞかし彼岸で喜んでいらっしゃるものと思います。小生からも感謝申し上げます。

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    6. もう一つ、ここに発表していない宮田君の個人資料がありますので、一度、店においで下されば、お見せします。

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